僕の野球人生。 苦しみの中に成長あり。成長こそが喜び。



僕の野球人生を振り返って、一言で表すと、


『苦しみの中に成長あり。成長こそが喜びなり。』


です。


思わず二言になってしまいましたが、この言葉は、今でもずっと胸に抱きしめています。


忘れもしません、小学3年生から、僕の野球人生はスタートしました。


と、その前に、僕は昔からサッカー少年でした(笑)


父の方針としては、何かしらのスポーツをやらせたかったそうで、スポーツ自体はなんでもよかったそうです。


幼稚園の頃からサッカーが好きだったので、小学生になってからも、地元のサッカーのクラブチームに入りました。


そこまではよかったのですが、このクラブチーム、1ヶ月に一回しか活動がなかったんです笑


だから土日は、大好きなゲームをして遊んでいたんですが、その様子を見た父が


『おい。サッカーをやめて、野球をやれ。』


と言った方が始まりですw


僕は正直、野球がやりたくなかったのですが、父の意見に逆らうことはできません。


僕は『いやだなー。』と思いながら、その週末に、地元の野球チームに見学に行って、そのまま入団しました。


運動神経は良かった方ですが、野球なんてやったことがなかったので、勿論チームで一番下手です。しかも超泣き虫でした笑


まず、練習に行きたくない。


行ってからも、走りたくない。


当たり前のことながら、ボールを取れない、投げれない。


打つこともできない。バットに当たらない。


小学1年生から野球を始めた友達は、既に打つのもボールを捕るのも、投げるのも上手です。


それを見た父は、僕に言いました。


『おい、朝練するぞ。』


この日から、僕は毎朝、父に朝5時半に叩き起こされ、近くの公園に行って、一緒に練習をしていました。


まずは、捕る事、投げる事、バットを振ることからスタートです。


不器用だった僕は、勿論上手くできません。


しかし、父は熱心でした。


ネットや本で情報を調べてきて、自分で実践もしながら、手取り足取り野球を教えてくれました。


当時の僕はそんな事が分からず、いっつもぶーたらぶーたら、父の見えない所で文句を言っていました。


けど、それには理由があって、指導方法が、封建的な恐怖政治そのものだったのです。


いわゆる、熱血親父ですw


朝に叩き起こされ、マンションの下に呼び出されます。


練習は何種類かあって、バッティング練習をする時と、ピッチング練習をする時がありました。


バッティング練習の時は、主に素振りと、トスバッティング、バトミントンの羽打ちを行っていました。

父の思う通りの体の動きが出来ないと、だんだん父がイライラして、よく叩かれていました笑

今では笑いごとですが、昔は恐怖そのものです。


ピッチング練習は、近くの公園に行って、小学生なので15メートルくらいの距離から、父に向かってボールを投げます。


僕はフォームがあまり綺麗ではなく、膝が下がる癖があったのですが、その癖が出ると、感情に任せて怒鳴られたり、よく殴られてました。


今思うと、恐怖で身体が竦んでいたような気もします笑


父はとても不器用で、愛情を伝えるのが苦手な人でした。


けど、僕の野球を上達させるためにあれこれ学んで考えてくれていたので、それが愛情表現だったのかもしれません。



それはさておき、毎日そんな調子で練習をしていたので、野球はかなり上手くなります。


小学3年生の時は一番ヘタだったのに、小学6年生になる頃には、3番キャッチャーで、打率も4割越えと、完全にチームの主力選手になっていました。


嫌いだった野球も、なんだかんだ好きになっていました。


中学校に進学する時は、チームメイトの半数は、中学校の野球部に入部しましたが、僕は硬式のクラブチームに入りました。


というより、これも父に決められました笑


それが当たり前だったので、当時はなんとも思いませんでしたが、こうした主体性の無さが、自分の人生を後々、苦しませていくことはその時は知る由もありません。


クラブチームは、県内でもかなり強いチームであり、中学1年生の時に見た中学3年生は、まじで異次元でした。


こっちはまだ小6上がりの、110キロにも満たないボールしか投げられないのに対し、3年生には130キロ近い速球を投げる選手がいました。


それもそのはずで、その選手たちは後々、甲子園に出場するような高校に行き、レギュラーとして活躍するような選手達だったのです。


あまりにもレベルが違いすぎましたが、それを見て、『やってやろう。』と思いました。


いつのまにか、野球に対して前向きな少年になっていたのです。


父との『朝練』は、中学生になってからは頻度は落ちましたが、続きました。


その代わり、自分で練習をするようになりました。


その頃は野球にどハマりしていて、学校から帰ったらトレーニングをして、素振りをして、ランニングをして、塾に行ってという生活をしていました。


両親は、僕の野球にかなりお金を投資してくれました。


チーム内で、元プロ野球選手が経営してる野球塾にも行かせて貰って、そこで色々な野球の練習をしたり、プロとはこういう人達か。と、肌で野球選手を感じる事が出来ました。


バッティングセンターにもよく行っていたので、月5万円以上は、僕の野球に投資して貰っていました。


それ以外にも、自分でインターネットを使って球速を伸ばす方法を調べたり、図書館に行って、変化球の投げ方を良く見ていました。


その甲斐あって、また野球は上手くなります。


中1の時は110キロ出るか出ないかだった球速も、中2では125キロ。中3では135キロまで伸ばす事が出来ました。


中学生というのは著しく、身体が成長する時期ですので、この時期に上手く選手としての能力を伸ばす事が出来たと思います。


中3の時は球速こそ速かったものの、まだまだ投手としては未完成。それどころか、変化球もロクに投げれる投手ではありませんでした。


それでも素材を買われ、県外の強豪校にスカウトされ、そこに進学することになりました。


この時も、進路は周囲の大人達に任せてしまっていました。

当時の僕は、言われるがままに大人達の敷いたレールの上を歩いていたのです。


高校に入ると、1年生の時から監督に目をかけて貰って、1年の夏からベンチ入りして、1イニングだけですが、登板させて貰うことができました。


3年生が引退して、1年の秋には、県大会で優勝する事が出来ました。決勝戦で登板して、勝ち星を挙げられたので、それは1つの自信になりました。


高校生活は寮生活で、野球にフルで集中できる環境でした。恵まれた師と出会い、野球とはどういうものか、人生とはどういうものか。という事を叩き込まれました。


監督の指導方針は、『自分の頭で考える』という事でした。


野球を辞めた後に、人生をどう生きるかの方が遥かに大切であるから、そのために自分の頭で考える癖をつけろ。と良く言われました。


だから、どうしたら野球が上手くなるかはあんまり教えて貰えません。


知ってはいるけど、その選手の成長のために口を出さずに我慢をしていたようです。


1年生の時は気がつかなかったですが、3年生になると、流石に監督の考え方のようなものが薄っすらと分かるようになります。


監督の指示にはどんな意図があるのかや、試合中に考えるべきこと。心の持ちよう、目には見えない技術ですが、小さな事で試合流れを変え、勝敗を分かつような事を沢山教え込まられました。


強豪校ではありましたが、力が目立つチームではなかったのが、うちのチームの特徴でした。


しかし、投手の配球の読み方であったり、ピンチの時の間の取り方、いかに最少失点で切り抜けられるか、試合に勝つためのノウハウみたいなものは、チーム全員に共有されていました。


ただの速球投手だった僕は、こうした新たな考え方を学んで、更に勝てる投手へと成長していきました。


ピッチャーは投げるだけではない。エースというのは、チームの精神的支柱でなければならない。

ピッチャーだから声を出さなくて良いわけじゃない。

どんな状況になろうとも、打者に強い気持ちで向かって行ける事がエースの条件だ。


こうした、"心"を大切にした野球を肌で感じ、そしてプレーヤーにとって、"心"の状態がいかにプレーに影響を及ぼすのかを身をもって学びました。


僕は、気が小さい、メンタルが弱いと言われ続けていました。


これは小・中・高とずっとです。


自分のせいで、2年の秋の大会は県大会で敗れ、高校2年の冬は自分の殻を破るために、1番苦手なランニングに徹底的に取り組みました。


5キロ走や、自転車で20キロタイム走。クロスカントリーや、ポール間ダッシュ


大好きな炭酸飲料を辞め、大好きだった彼女とも別れ、全てを、野球に捧げて3年の夏に向かっていました。


その甲斐あって、メンタルは超鍛えられ、球速は145キロを超えるようになりました。


3年になってからの練習試合では、全て先発完投。


僕は、甲子園に出れることを確信していました。


『俺は誰よりもやってきた。これ以上頑張ったやつはどこにもいない。俺が負けるはずがない。』


本気でこう思っていました。


人間とは不思議なもので、自分で自分を真に認められる程努力をして自信が持てた時、夢が叶ってしまうものです。


そして僕らは、自分を信じて、仲間を信じて県大会を勝ち進み、甲子園に出場しました。


高校3年間で学んだことは、まじで言葉通り、かけがえのないものでした。


高校野球が終わり、プロか、大学か、と問われた時、すでに、周囲の人達によって、大学進学が決められていました。


今だからこそ言えることですが、野球選手として生きていくのであれば、プロに行きたいと言って、プロに行くべきだったと思っています。


そこでも、流されるままに大学に進んだことで、僕の人生は大きく変換を迎えたと思います。


大学の野球部の一年目は、正直地獄でした。


上下関係が半端じゃなかったのです。


雑用は全て1年の仕事、グラウンド内では常に全力疾走。極め付けには理不尽な説教。。。


野球を止めるわけにはいかなかったのでやめることはできませんでしたが、何度もやめようと思いました。


なんとか耐えて、2年生になりました。

野球をする余裕が生まれ、結果もではじめていました。


公式戦で登板する機会を頂いて、良い経験を積みました。


そして、さあこれからという三年生の時に、肩の怪我を発症しました。


原因は、投げすぎでした。


高校時代から連投連投、大学に入ってからも試合に出れない分、多数の投球練習をしていました。


今思うと、迂闊でした。


選手は身体が資本であるという事を忘れていました。


もっと労って、自分の体を使ってやれば良かったなあと思いました。


それからというもの、怪我を庇いながら練習や試合に臨みましたが、思うような結果を出す事が出来なくて、四年生になりました。


ふと、ある本を読んでいる時に、


確か、“自分の本心に耳を澄ませて生きろ"みたいな事を書いてあったのを読みました。


そこで僕は初めて、


『自分は本当に野球がしたいのか?』


ということを考えるようになります。


答えは、NOでした。


野球は大好きですが、もうプレイヤーとしては続けられないということを、自分が1番よく分かっていました。


無理をし続けた体は、もう限界であることを。


薄々気がついてはいたけど、直視できなかったのです。

だって、自分の人生は、野球そのものだったから。。


野球をやめたら、何をして生きていけばいいんだ??


けど、ずっと逃げ回ってきた僕は、自分とひたすら向き合うことになります。


そして気がついてしまった1つの事実。


僕の人生は、野球に縛られていたのです。


けどこれは、誰のせいでもない、自分のせいです。

主体性がない、自分のせいなのです。


この事実を受け入れて、僕はプレーヤーとして野球を止める決断をしました。



その瞬間から、僕の第2の人生がスタートしました。


知らず知らずのうちに閉じてきた、


"自分の人生の可能性という扉が、無限に開いていく感覚でした。"



そうだ、この感覚だ。なんて素晴らしいんだ。


『俺にはまだまだやりたい事がある。


これからの人生なんでもできる。


まずは、今までのこの経験を、次の世代に伝えよう。


技術はもちろんのこと、野球から学んだ人生論を、もっと多くの人に伝えなければ。』





こうやって思うようになりました。


そのために、僕はこうして記事を書いてます。



これから沢山のブログやメルマガを書いて行きますので、皆さん楽しみにしていてくださいね。



これを読んだ方の野球人生が、少しでも良いものになることを祈っています。